『茶の本』第一章人情の碗

P13「茶道は日常生活のむさくるしい諸事実の中にある美を崇拝することを根底とする儀式である。それは純粋と調和を、思い遣りを抱くことの不思議さを、社会秩序のロマンティシズムを、諄々と心に刻みつける。それは本質的に不完全なものの崇拝であり、われわれが知っている人生というこの不可能なものを成し遂げようとする繊細な企てである。」納得!

P13「茶の哲学は、世間で普通に言われている、単なる審美主義ではない。それは倫理と宗教に結びついていて、人間と自然に関するわれわれの全見解を表現しているからである。」

P14「なるほど、局外者には、この空騒ぎめいたものが不思議に思えるかもしれない。一杯の茶碗で何たる大騒ぎ!と言うであろう。しかし、人間享楽の碗は所詮いかにも小さいものではないか、涙でたちまち一杯になってしまうではないか、無限を求めるわれらの渇きは癒したがく、一息の呑みほされてしまうではないか。」

P15「茶道こそ、わが「生の術」を大いに表しているのである。もしもわが国が文明国となるために、身の毛もよだつ戦争の光栄に拠らなければならないとしたら、われわれは喜んで野蛮人でいよう。われわれの技芸と理想にふさわしい尊敬がはらわれる時まで待とう。」

P18「あなた方はわれわれを「茶気がありすぎる」と言って笑うかもしれない。が、あなた方西洋人の体質には「茶気がなさすぎる」のではありませんか。」

P22「西洋の風流人(ユーモリスト)はかれらの思想の香気に茶の芳香をない混ぜるのに遅鈍ではなかった。茶にはワインの倨傲やコーヒーの自意識がなく、ココアの無邪気な作り笑いもない。」遅鈍ってかっこいい!

P24「現代の人類の天は事実、富と権力を求めるキュプロス的巨大な闘争によって粉砕されている。世界は我欲と俗悪の闇の中を手探りで歩いている。知識は疚しさの意識によって得られ、博愛は功利のためにおこなわれる。…その間に、一服のお茶をすすろうではないか。午後の陽光は竹林を照らし、泉はよろこびに泡立ち、松籟はわが茶釜にきこえる。はかないことを夢み、美しくおろかしいことへの想いに耽ろうではないか。」