『茶の本』第二章茶の流派第三章道教と禅道

P35「その飲料は純粋と精巧にたいする崇拝の口実となり、主人と客が一緒になって、この折に現世の無上の幸福を作りだす神聖な役割を果たすものとなった。茶室は生存の寂寞たる荒野の中のオアシスであり、疲れた旅人はそこに出会って、芸術鑑賞という共同の泉から渇きをいやすことができた。」

P40「世の中そのものが愚劣だというのに、どうして世の中にたいして真面目になれよう!」かっこいい!

P41「だがトラストは驚くほど繁盛している、値段がばかばかしいほど安いからだ…もしほんとうに世間に役立つことが知れたら、すぐに競売に出されて最高入札者の手に落とされよう。何故、男も女もそんなに自分を広告したがるのか。それは奴隷時代に由来する本能にすぎないのではないか。」

P42「道教は現世をあるがままに受け容れる。儒者仏教徒とは異なり、悲哀と苦悩のこの世に美を見いだそうと努める。」

P43「老子はこのことを「虚」という彼の得意の暗喩で具体的に説明している。物の真の本質は空虚にのみ存すると彼は主張した。たとえば、部屋の実質は屋根と壁で囲まれた空虚な空間に見いだされるのであって、屋根と壁そのものではない。水差の効用は、水を容れる空所にあるのであって、水差の形状やその材質にあるのではない。「虚」は一切を含有するが故に万能である。虚においてのみ、運動が可能になる。おのれを空しくして他人を自由に立ち入らせることのできる者は、どんな事態をも自由にすることができるだろう。全体はつねに部分を支配することができる。」これが道教の思想。

P44「美術において同じ原理が重要なことは、暗示の価値が例証している。何ものかを言わずにおくことによって、見る者はその思想を完成する機会をあたえられる。かくして、偉大な傑作は見る者の注意を否応なくくぎづけにして、ついに見る者が現実に作品の一部分になっているような気持にさせる。虚は見る者を誘い、彼の美的情緒を十二分に満たすためにそこにある。」確かになぁー

P45「禅は、ひたすら瞑想を通して最高の自己実現に到達しうると主張する。瞑想は仏性に達する六つの道の一つであり、禅宗徒の断言するところによれば、釈迦牟尼はその晩年の教えの中でこの方法をとくに力説し、その主要な弟子カーシャパにその規則を伝えた。」

P46「禅道は道教と同じように、「相対性」を崇拝する。或る禅師は禅を、南の空に北極星をみる術であると定義している。真理は相反するものを把握することによってのみ、得ることができる。さらに、禅道は道教と同じように、個人主義の強力な鼓吹者である。われわれ自身の精神のはたらきに関わりをもつところのものだけが現実的である。六代目の祖師慧能(エノウ)は或るとき、風にはためく塔上の旗を二人の層がみつけているのをみた。僧の一人が「動いているのは風である」と言った。他の僧は「動いているのは旗である」と言った。しかし、慧能は彼らに説いた、真に動くものは風でも旗でもない、お前たちの精神の内部の何ものかである、と。」

P48「禅が特に東洋思想になした貢献は、俗界と精神界と同じ重要さをもつものと認めたことである。事物の大きな関係においては大小の区別はまったくない、一箇の原子は宇宙と同等の可能性を有すると考えた。完全を求める者は、自分自身の生活の中に内なる光の反映を発見しなければならない。禅林の組織はこの見地からきわめて意義深いものであった。祖師以外は、禅僧ことごとく禅林の世話をする何らかの特別な仕事が割り当てられた。そして奇妙なことに、新参者には比較的軽い務めが課せられたが、いちばん偉い修行を積んだ僧には、他の僧よりも退屈で下賤な仕事が課せられた。こういう作務は禅僧の修養の一部をなしていて、どんな些少な行為も絶対に完璧に果されなければならない。そういうわけで多くの重要な問答が、庭の草取り、蕪の皮むき、茶のもてなしをするかたわら、次つぎにかわされた。茶道の理想ぜんたいが、人生のごく些少な出来事の中に偉大さを考えつくこの禅の一帰結なのである。道教は審美的諸理想に基礎をあたえ、禅道はそれら理想を実際的なものにした。」こういうことなのねぇ、私が20年間分からなかったことは。