『茶の本』第4章茶室

P52「茶室は見かけは印象的ではない。それは一等小さい日本家屋よりも小さく、その建築に使われた材料は気品ある貧しさを暗示する意図がこめられている。しかも、すべてこのことは深い芸術的先慮から出たものであり、その細部の仕上げに使われた配慮は、どんな立派な宮殿寺院の建造に払われた配慮よりも周到であることを忘れてはならない。」

P57「古いもののかもし出す芳醇が万事に行きわたっていて、新しく手に入れたことがわかるようなものは一切、禁物である。ただ例外は、どちらも真白で新しい、茶筅と麻の布巾がかもしだす、いちじるしい対比である。茶室と茶器がどれほど色あせてみえようとも、すべてのものがまったく清潔である。部屋のいちばん暗い隅にも塵ひとつ見当たらない。もしもあるようなら、その亭主は茶人ではない。」

P61「美的存在を本当に掴むには、何らかの中心主題に注意を集中しなければ不可能だからである。そういうわけで、わが国の茶室の装飾法は、西洋でおこなわれている、家の内部がしばしば博物館と化しているような装飾法とは反対のものであることがわかるであろう。装飾の簡素と装飾法の頻繁な変化に慣れている日本人には、西洋人の室内は絵と彫刻と装飾的骨董品の長蛇の列でつねに充満していて、富をただ俗っぽくひけらかしているという印象をあたえる。」

P63「真の美は、不完全を心の中で完全なものにする人だけが発見することができる。人生と芸術の力強さは、伸びようとする可能性の中にある。」

P65「茶室の簡素と卑俗からの自由は、茶室を外界のわずらいをのがれた真の聖域たらしめている。そこでのみ人は、美の崇拝に何ものにもわずらわされずに身を捧げることができる。」


その訳者前書きにある「何か、自己流謫を想はせるさびしい海辺の光景」という表現は、ちょうど六角堂がある北茨城のすぐ上・福島県いわき市出身で、母方の家系は漁船の経営をしていてまぐろかつお協会をしていたということもあり(笑)北の太平洋には馴染みのある私から見ても、非常に的確だと思う。ワタリウム美術館磯崎新作・新六角堂のインスタレーションですごく美しい(デジタル加工したとしか思えない)太平洋の映像を投影していることに対する違和感の要因は、この捉え方の違いにあるのだろうと思った。

岡倉天心が選んだ北の太平洋は、南の太平洋とは全く違う、まさに「太平洋の怒涛が岩礁に砕け散る」ところです。