『茶の本』第5章芸術鑑賞 6章花

P68「美の不思議な手に触れられると、われわれの存在の神秘の琴線が目を覚まし、その呼びかけに応じてふるえ、わななく。心は心に語りかける。われわれは言葉にならぬものに耳を傾け、見えざるものを凝視する。巨匠はわれわれの知らない旋律を呼び起こす。」

P69「宋の著名な一批評家が、かつて魅力的な告白をしたことがある。「若いころ、私は自分が好む絵を描く巨匠を賞めたが、自分の鑑識力が熟してくるについて、私の好みに合わせて巨匠たちが描いた絵を好む自分を、賞めるようになった。」…巨匠というものは、つねに何かご馳走を用意しているのだが、ただ味わう力が欠けているために、われわれは腹をすかせているのである。」

P71「彼は「無限」を垣間見るが、彼の喜びを声にする言葉がない。眼は舌をもたないから。彼の精神は物質の束縛から解放されて、物の律動となって運動する。かくて、芸術は宗教に近いものとなり、人類をたかめるのである。」

P73「われわれの個性さえも、或る意味ではわれわれの理解力に制限を設けている。…しかし、結局、宇宙の中でわれわれにみえるのは、自分自身の形象だけなのであって、言い換えれば、われわれの固有の気質が認識のかたちを指図するのである。茶人たちにしても、彼らの個性的な鑑定基準の外に一歩も出ることのない物のみを集めた。」

P73「遠州は、収集品を選ぶに際して示した素晴らしい趣味について、弟子たちからお世辞を言われたことがあった、「どの品も見事なもので、感嘆のほかありません。これをみていると、先生が利休よりもすぐれた趣味をもっておられることがわかります。なにしろ、利休の収集品を鑑賞できるのは、千人中一人しかいないのですから。」遠州は悲しげに答えた。「それは、私がいかに凡庸であるかを証明しているに過ぎません。あの偉大な利休は、自分の膚に合う物だけを愛する勇気があったのだが、それにひきかえ私は、無意識のうちに多数の趣味に迎合しているのです。実に利休は茶人としても千人に一人の人間でした。」
大変残念なことだが、今日、芸術にたいするこれほど盛んな表面の熱狂は、真実の感情に根ざしていない。このわれわれの民主主義の時代には、人々は自分の感情を顧みることなく、世間一般がもっともよいと見做すものに喝采を送っている。彼らが欲しがるのは、高価なものであって、風雅なものではない。当世風のものであって、美しいものではない。大衆にとって、彼ら自身の産業主義の価値ある産物である絵入り雑誌を眺める方が、彼らが讃美するふりをしている初期のイタリア人や足利時代の巨匠よりも、芸術的享受にはより消化のいい食物となってくれるのであろう。作品の質よりも芸術家のなまえの方が、彼らにとって大事なのだ。何百年も昔の中国の或る批評家がかこったように、「民衆は彼らの耳によって絵を批評する。」今日どこを向いても、眼に触れる擬古典的なぞっとするしろものにたいしては、この正真の鑑賞力の欠如が責めを負うべきである。」

P75「われわれは分類に忙しすぎて、享受する暇がなさすぎる。いわゆる科学的方法による陳列のために、審美的方法を犠牲にしたことは多くの博物館の害毒となっている。」これは今よく言われていること。

P76「同時代の芸術が抱いている主張は、どんな重要な人生の企画においても、無視することはできない。今日の芸術は、現実にわれわれに属しているところのものである。それは、われわれ自身の反映である。それを断罪することは、われわれ自身を断罪することにほかならない。」

P77「きっと人類は、花をめでるようになったのと時を同じくして、愛の詩を歌うようになったにちがいない。無意識なるがゆえに美しく、もの言わぬゆえに芳しい花を措いて、どこに魂の処女性の花ひらく姿を想像できようか。原始時代の男は恋人にはじめて花輪を捧げることによって、獣性を脱した。彼は、こうして、生まれながらの粗野な本能を超越して、人間となった。無用の微妙な用を認識したとき、芸術の領域に入った。」

P80「最初につかまったとき、その場で殺される方がましではなかったろうか。こんな刑罰を受けるとは、いったいどんな罪をお前の前世の化身は犯したというのだろう。…花を切り、その手足を曲げることによって、世界観をたかめる新しい型を展開させることができるならば、そうしてもよいではないか。われわれが花に求めるのは、美にたいするわれわれあの奉仕に加わってもらうことだけである。われわれは「純粋」と「簡素」に身を捧げることによって、この行為の償いをしよう。こういう論理で、茶人たちは生け花の法を定めたのである。」立花が痛々しいのはこのせい?

P81「われわれは、黙々とわれわれを愛し、仕える者にいつも残忍であるが、やがて、その残酷さゆえに最良の友人から見捨てられる時がくるかもしれない。」

P91「花は人間のように臆病ではない。花によっては死を誇りにするものもある。日本の桜がそうで、彼らはいさぎよく風に身をまかせるのである。」